浦添ようどれ,浦添城

今回ご紹介したいのは、沖縄県浦添市にある長さ約400メートルの隆起珊瑚礁の断崖の上に築かれた浦添城(特にその中にある王凌・浦添ようどれ)。

ただし、現在は城とは言っても首里城のように建物があるわけではなく、厳密には城(グスク)跡です。

浦添グスクは13世紀ごろ築城され、15世紀までに英祖王や察度王などが居城としたといわれています。

14世紀に中国や東南アジアとの交易で栄えた浦添は、王都として整備され、首里の原型となりました。

浦添ようどれ,浦添グスク
昭和初期の浦添ようどれ写真

 

15世紀の初めに王宮が首里城に移転し、浦添グスクは荒廃しましたが、その100年後に、浦添出身の尚寧王が再び居住。

城内の建物は再三にわたり改築されているのがわかっていますが、最後のものは1609年、慶長の役に伴う薩摩軍の侵攻に遭い焼失したそう。

ちなみに、浦添グスクは、防衛に適した地形(北は急崖で、南は緩斜面)から、沖縄戦では日本軍の重要拠点とされた激戦地、戦跡のひとつでもあります。

米軍との間で前後11回にわたる激しい争奪戦、攻防戦が約3週間の間繰り広げられたとのこと。


 

さて、台風19号が接近する直前に久しぶりに浦添グスクをたずねてみました。

まず浦添グスクの北側の断崖にある王凌『浦添ようどれ』へ。

「ようどれ」とは琉球語で夕凪、死者の世界、墓という意味で、ここに英祖王と尚寧王が眠っています。

13世紀後半に英祖王が築いたといわれ、その後、14世紀後半~15世紀前半に石垣がめぐらされました。

さらに1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られています。

暗しん御門,浦添ようどれ,浦添グスク
暗しん御門

 

ようどれの頂から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かつてはトンネル状の通路であった暗しん御門(くらしんうじょう)を通って二番庭(なー)に出ます。

そして中御門(なーかうじょう)と呼ばれるアーチ門をくぐりぬけて、墓室のある広い一番庭(なー)にいたります。

ここで墓を目にすることができるのですが、墓室は自然洞窟を堀削し全面を石積みで塞いだつくりです。(沖縄の墓造りの原型になったとも考えられています)

西室(向かって右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。

英祖王の墓,浦添ようどれ,浦添グスク
英祖王の墓

 

墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、仏像などが巧みに彫刻されているそう。

去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積みは大きく破壊されましたが、戦後琉球政府によって墓室が修復され、平成12年~17年には墓庭の石積みが復元されました。(戦前、破壊される前のようどれには荘厳な雰囲気が漂い国宝候補にあげられていたようです。破壊前の姿をこの目でみたかったです)

墓室・墓庭の石積の復元と同時にオープンした資料館『浦添グスク・ようどれ館』(グスクから約100m離れた場所にあります)では遺構から出土した遺物などが展示され、墓室内をリアルに実物大で再現した部屋があります。

ここでは、墓室内の様子や王の骨が入った石厨子のレプリカを見ることができますよ(必見)。

浦添グスク,ようどれ館,墓室内
墓室内を再現した部屋


 

『浦添ようどれ』を堪能したあとは、崖の上へ。

前述したように城の建物はなく城壁が少々残るのみで、木の生い茂った公園のようなたたずまい。

ただし、あなどることなかれ。

展望台からの風景はおすすめです。

360度のパノラマで首里方面や牧港の海すべてが見通せます。

なぜか、ここに立っていると、最初に築城した王様の気持ちが分かる気が。

さあ、あなたの想像力次第では、800年前の琉球王の気持ちになれるかもしれません。

浦添城、浦添ようどれぜひ一度足をお運びください。(観光客はほとんどいません)

浦添ようどれ,浦添グスク
ようどれ崖上からの風景

 

浦添ぐすく,石畳道
浦添グスク南斜面の石畳道(かつては、この石畳道は首里城までつながっていた)

浦添グスク南斜面の石畳道が、かつてつながっていた金城町石畳道の記事

【冬こそ沖縄】日本で最も美しい道「金城町石畳道」を歩く

 

場所は安波茶交差点を牧港方面へ約300m、「浦添城跡(ようどれ)」の看板を目印に右折して約450m。

バスを利用される場合は、那覇バスターミナル経由55系統を仲間バス停で下車、看板を目印にして歩くとたどりつけますよ。